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村上春樹『若い読者のための短編小説案内』の案内(2021年2月時点)

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私は村上春樹がとても好きなので彼の本を色々と買い込んでいるのだが、本棚を見て「そういやちゃんと読んでなかったな」と思った本があった。 それが、「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫, 2004年(単行本1997年))だった。手に取った当時この本を読めなかったのには明確な理由があった。この本では、「第3の新人」という日本の文学史のなかの一群の作家の短編を扱っているのだが、私は当時日本文学に興味を持っていなかった。それが理由である。 ところが、ここのところ急激に日本文学に興味をもつようになった。 これについては前記事で:「 好きな日本人作家の話 」 という流れがあり、今回本書を読むことにした。 この本の中では6人の、第3の新人に類される作家が扱われる。 以下に扱われている作家の情報をまとめる(入手困難か否かについては、書店で発注して入荷してもらえるか確認した結果。Amazon等で探せば中古なら下記の全集以外の収録書籍を入手可能。全集で読むなら図書館で探せば恐らく見つかるはず)。 小説家名 作品名 今回確認した収録書籍 入手困難? 吉行淳之介 水の畔り 吉行淳之介全集1(講談社) 困難 小島信夫 馬 アメリカン・スクール (新潮文庫) 購入可能 安岡章太郎 ガラスの靴 質屋の女房 (新潮文庫) 購入可能 庄野潤三 静物 プールサイド小景・静物 (新潮文庫) 購入可能 丸谷才一 樹影譚 樹影譚 (文春文庫) 購入可能 長谷川四郎 阿久正の話 現代の文学22 長谷川四郎 開高健 (講談社) 困難 吉行淳之介「水の畔り」については、この作品は探しづらいが、芥川賞受賞作品でもある「驟雨」を収録する「原色の街・驟雨」等は購入可能(「水の畔り」はマイナーな作品のようですね)。この本に収録されている「漂う部屋」は「水の畔り」と同じ病室を扱った短編。 長谷川四郎「阿久正の話」については、この作品だけでなくこの作家の単行本そ...

好きな日本人作家の話

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個人的な話になるが、昨年夏頃から読書習慣が7年ぶりくらいに復活した私は、ようやく日本の文学作品を多少なりとも広く読むようになった。 私は音楽でも読書でも基本的には、誰か1人(もしくは1グループ)に猛烈にはまり、その人(グループ)に影響を与えたものに派生していく形で趣味の幅を広げる。だから、ジャンルだったり年代だったり、客観的な分類で話を始めるとうまく入っていけないことが多い。 読書については、特に村上春樹作品によく登場するフィッツジェラルドのようなアメリカの作家の方面で広げてきたように思う。 それが、最近改めて村上作品だったり関連作品だったりを読み直していた中で、ようやく夏目漱石に辿り着き、日本文学を色々と楽しみたいと考えている状況が現在である。 まずは夏目漱石の話をする前に、 内田百閒 について。 村上春樹「1Q84」の中で天吾が病室で眠り続ける(そして不和でもある)父に向けて淡々と読み聞かせをする場面の中で登場する「 東京日記 」という小品集からの一節が何となく強烈な印象を与えてきた。最初はその文の出典がわからなかったところから頑張ってこの作品を探し出してきて、読んでみて大好きになった。個人的には、「 百鬼園随筆 」、「 御馳走帖 」で見せるへそ曲がりの頑固な厄介者な姿や「 ノラや 」で見せる可愛らしさなどもまた、随筆を通じて見ることができた百閒先生の姿であり、この作家に強い親しみを覚えることとなった。 明治の終わりに岡山県に生まれ、昭和の終わりまで生きた作家。夏目漱石の大ファンとして帝大入学と共に上京し、芥川龍之介に背中を押されてプロの小説家になったらしい。 本当にその素直な日本語の使い方が印象的で、とても好感の持てる作家だと思う。 さて、話を夏目漱石に戻す。夏目漱石を手に取ったのは複数の要因からだった。 一つは、 内田百閒 。上述のとおりであるが、彼は夏目漱石の大ファンであり弟子でもある。 もう一つは、「 海辺のカフカ 」。主人公の少年が高松の図書館で夏目漱石の「 坑夫 」を読む場面がある。 さらにもう一つが、 芥川龍之介 。新潮社が「 芥川龍之介短篇集 」(ジェイ・ルーピン編)という、英語話者向けに海外で発売されたものを「逆輸入」したものがあるのだけど、その序文を村上春樹が書いているということで手に取っていた。そして、芥川龍之介は内田百閒の親友であり、夏目...

大人になることを考える;村上春樹「海辺のカフカ」の再読

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村上春樹「海辺のカフカ」再読。 読み終えて一日考えたことのメモ(FBに書いたこと)。読み終えてすぐの感想はその下に長々と。 昨日、村上春樹「海辺のカフカ」を読了し、色々なことを考えた。ここのところ、自分のこととして考えていたこととクロスし、中々身のある思索になっている気がする。 「海辺のカフカ」の主題は、とにかく「大人になること」である。 大人になること、子供ではなくなることとは何か。 この小説で描かれるそれは、両親や育った環境に対する受動的な態度を、それら全てを含めて自分自身であると受け入れる(=主体的な態度)ことなのではないかと思った。両親や育ち、というのは子供が選べないものである。しかし、それがどんなものであれ、人間は大人になっていく。そのときに、自分が受け取ってきたもの(善きものにせよ悪しきものにせよ)を、自分で選び、認め、許し、受け入れることが必要になるのではないかと考えた。 また同時に、大人になることとは、河の向こう岸に見える「理想の自分」を追い求める姿勢から、こちら岸の自分と向き合う姿勢に変わることではないかと思う。どこかにあるかもしれない理想の自分を手探りで探す年齢ではもうないのだろう。こちら側の、この世界に立つこの自分という存在を、選び、認め、許し、受け入れる儀式もまた大人になるということなのではないかと思う。 こう考えると、20歳を迎えて既に9年半近くが経つ私も、ずっと子供のままだったのだと思う。長らく小学生の頃からの延長線にいた気がする。 自然発生的に生じた自分という存在を、自分の意志で受容する。自分が認めた存在として再定義する。それが大人になる、ということなのかもしれないと考えていた。 そんな日曜日。 以下、読み終えた昨日勢いで書いた長い感想。 気になるところに付箋を貼ってみたら、高校時代の英単語集みたいになってしまった。 おそらく、20歳ごろ、人生で初めて読んだ村上春樹の小説だったのではないかと思う。当時は、この小説の意味がよくわからなかった。格別、表現が難しいわけではない。起きていることはなんとなくわかる。何かのメタファーとなっていることはわかる。何かを伝えようとしているのはわかる。だけど、それが何かわからなかった。 今回は、意を決しての再読。丁寧に読むことにした。また、あれからほぼ10年が経つ、というのもある。何となくこの小説の伝え...

日記;千と千尋の神隠しを観て勇気について考えた話

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  引き続き夏休み。 昨日は電車とバスを乗り継いで埼玉南部の映画館まで来て「千と千尋の神隠し」を観た。 本当は私の居住市内でも公開していたのだが、公共交通機関でのアクセスがひたすら悪いところだからという理由で電車で来れる埼玉まで来た。前回も書いた通り、電車で移動するのが大好きな人種である。 そして、車社会を自転車で生きているへそ曲がりでもある。 こうもうろちょろするのが好きな人種は、コロナ禍の世の中では気を付けないといけないとも思う。まあ、元々人混みは嫌いだし、人が集まるような理由がない通りをぶらぶらするのが好きな身である。なので、それほど危険はないのではないかと思っている(大体のお話では、こういう奴がいちばん危ない。気を付けます)。 して、「千と千尋の神隠し」である。素晴らしい映画だった。もうその一言。2001年の公開当時は小学校4年生だった少年も29歳のおっさんになった。 29歳は断じておっさんではないと思うのだけど、今週のジャンプで『「28をおっさんと思ってないあたり…」「闇が深いですね」』(田村隆平「灼熱のニライカナイ」より)と言っていたからそういうことなんだろうと思う。ジャンプを読んでいても、少年認定はしてくれないようだ。 ともかく、何だろう、この歳になって改めて観てもすばらしい映画だった。むしろ、細かい描写に引き込まれ、子供ならではの真っ直ぐな勇気とか優しさとか、そういうものを考えた。 私は映画を観ると登場人物に対して過度に自己投影する質なので、千尋とその家族が神隠しに逢い両親が豚になってしまうシーンでは、29歳の比較的肩幅の広い男が結構びくびくしてしまった。展開がわかっているからこそ、「ああ、やめとけよう。。勝手に食べるなよう。。」などとおびえてしまう。実にかわいいものだなと自分で思う。 それが何歳だか知らないが、まだ小学生であろう千尋が、恐れや困惑をすぐに乗り越えて真っ直ぐに立ち向かっていく。 なんだかおっさん、勇気をもらってしまう。 いや、まあアニメの話だし、そう考えれば子供向けアニメってそういうものな気もするけれど、やっぱりそこら辺はさすがジブリなのか、映画を観ている間になんだか自然と勇気をもらってしまっていた。 どうもこう、頭がとっ散らかりやすい身である。あれやこれやと考えが盛んに動き回り、不安や恐ればかりが大きくなり、結果動けないこと...

人生の小説

  自分にとって、「人生の小説」と呼ぶにふさわしい小説がある。それは、どこかしら自分の人生のことを書いているように感じるところもあり、また、20代という非常に不安定な時期に、自分の生き方に影響を与えたようにも思える小説である。それに、自分の人生のなかでこんなに大切に読み直し続けている小説はほかにはないとも思える。 久々に、またその小説を読み直したので、そのことについて簡単に書いておきたい。 以前にも「1Q84」を取り上げているから、予想できることかもしれないけれど、それは村上春樹の小説でタイトルは「 ダンス・ダンス・ダンス 」(1988年)。 「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の青春三部作(鼠三部作)を通じて、主人公は世間とは馴染めないながら自分なりの生き方を続け、その中で静かに色々なものを失っていった。30代も半ばに差し掛かる彼が、もう一度、自分の人生の中で失っていったものを取り戻していこうという物語。 実は、私が村上春樹小説で最初に購入したのはこれだったはずだ。ただ、読み始めて最初の段階であまりに設定が理解できなかったので、前作「羊をめぐる冒険」に一度戻ったと記憶している。 たしか、19歳か20歳になった年、大学の1年生か2年生の時だった。そのときからずっと自分にとって大事な小説になっている。かれこれ10年ほどは経つわけだが、それを今日読んでも、物語に心が強く揺さぶられ、涙しそうになった。 この小説について、私が魅力に感じるのは主に2つである。1つは、人生の示唆に富んだ名台詞や今でも印象に残っている表現の数々。もう1つは、魅力的な登場人物。これらはこのあとの村上春樹作品でも、もちろん当てはまるだろうけど、それにしてもいまだにこの小説ほど魅了されたものは他にないと思う。最初に出会い、そして今のところ自分の中で最高の作品になっている。 1つ目の表現について、いくつか引用してみたい。 「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽のなっている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりは...

観覧車から連想して

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先日、ウディ・アレン監督の「A Rainy Day in New York」を観た感想を書いた記事のなかで、この監督の過去タイトル「女と男の観覧車(Wonder Wheel)」を観たかもしれないという話をした。記憶が曖昧だったので、記事を書いた後に早速観たのだけど、残念ながら私の記憶にあったものとは違った。私の頭の中には、女性が観覧車の中に取り残されている情景が絵として残っていたのだけど、この話では主人公の哀れな女性が観覧車に乗り込むシーンはなかった。 2020/7/23記事「雰囲気嗜好;A Rainy Day in New Yorkを観て」 それでは、私の頭にあるのはなんだったんだろうと気になって仕方がなくなり、色々と言葉を変えながらネット検索をした。結果、おそらくそれだろうと思われる(実際そうだった)ものが見つかった。それが、村上春樹「スプートニクの恋人」だった。 「スプートニクの恋人」は村上春樹小説としては、中編といっていいくらいの長さ。単行本で購入すれば持ち運びにちょうど良い厚さだと思う。さっそく久しぶりに読んでみた。 結果から言えば、私の記憶にあったのは、この小説の中に出てくる描写だった。登場人物の回想の中に、スイスの小さな街でその女性に起こった不思議な出来事が出てくるのだが、それが、この観覧車の出てくる情景だった。 これについては、やっと自分の頭にあった光景が何だったのかわかり、すごくすっきりした。と同時に、この光景が出てくることを忘れていたということはつまり、何度も読み返している村上春樹小説が多い中でこれについてはほとんど読み返していなかったということでもあり、久々に読み直すいいきっかけともなった。 たぶん、この小説を読み返してこなかった理由は、村上春樹の小説にしてはすごくあっさりしているからだろうと思う。この小説も、もちろん、特有の言い回しであったり現実から少し位相をずらしたような世界観であったり、そういった村上春樹感は健在なのだが「海辺のカフカ」や「1Q84」ほどの濃密さはなく、割とすっきり読めるのではないかと思う。 また、読み返してみて、これまでにどこかで出会った記憶のあった言葉だけど、どこで出会ったかは忘れてしまっていた言葉も出てきて、それを改めて拾いなおせたのもよかった。せっかくなので、引用しておく。 「まず気持ちを落ち着けるんだよ。たとえば...

「1Q84」の再読;共感できないほど深い愛と、少しだけ位相の異なる世界について

  こんにちは、RTです。 友人との会話をきっかけに、すごく久しぶりに村上春樹著「1Q84」を読んだ。日曜日から、空いている時間や、正直に言えば年休まで使って、計1657ページの世界に深く潜っていた。 村上春樹の小説を初めて読んだのは、確か大学1年か2年の歳だった。19、20くらいのときに「羊をめぐる冒険」を手にしたのが最初だと記憶している。 しかし、23歳で大学院に進学し、25歳で就職してからこの6年くらいはあまりその世界に浸っていなかった気もする。 となると、私が村上春樹作品を特に好んでいたのはたかだか3年くらいのことになるわけだから思ったより短い。 それはそうと、久しぶりに「1Q84」を読んだわけである。 確認してみたらBOOK1が30刷2010年12月25日とあったので、初めて読んでから9年ほどは経つようだ。しかし、十年一昔というが、全くそんな気はしない。光陰矢の如しというのとも違い、長いも短いもなく、ただ気がついたら過ぎていた感じに思う。 それからもたぶん、たまに本棚かあるいは床か机の本の山というか塔というかから引き抜いて、要所要所をかじっていた気はするのだけど、頭から尻まで、しっかりと読みきったのはこれが2回目だと思う。 1回読んでいたので、すでに話の印象は頭にあった。月が2つある、1984年とは違う1Q84年の世界が舞台の話。すごくシンプルだし、これだけ聞いても読もうという気にはならないかもしれない。だけど、個人的には、そのすごくシンプルで同時に不可解な世界観をとても気に入っていた。 空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。 村上春樹「1Q84」BOOK1 第15章 先日、スタインベック著「怒りの葡萄」を読んだという記事を書いたときにも記したが、小説を最後まで読みきれるか否かはその世界にどれだけ没入できるかによる。 その点、「1Q84」については、9年前も現在も、その月が2つ並ぶ世界にとても深く潜ることができた。潜りすぎて少しばかり疲れたけど。 青豆と天吾という、2人の30歳になる男女の物語が交互に語られながら物語は進む。 ...