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11月, 2020の投稿を表示しています

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本ブログ内にはブログ記事の他にも、個人的な趣味に関連して様々なコンテンツを用意しております。大体以下のような感じですので、ご参考にしていただけましたら幸いです。 自己紹介 演奏集 自作曲やカバー曲のアコギ弾き語りをYouTubeで公開しています。 書き物帳 本ブログとくらべ、より主観的な視点で文を書いているブログや、そこで公開している小説類、短歌などをご紹介しています。 読書歴 読書メーターでの読書記録を独自にデータベース化したりグラフにしたりしています。 読書・抜き書き 読書の中で心にひっかかった表現を抜書きしています。 本ブログの執筆ルール これまでの更新記事

いびつなひとのためのまっすぐな音楽

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縦書きブログを更新した。 私は発達障害者です - RT - g.o.a.t 今年の3月、ADHDの診断が出たというお話。 色々と生きづらさがある私だし、世間には生きづらい人が山程居る気がする。それを証拠に、この世の中には、山のように生きづらさを叫ぶ歌が溢れている。 最近、生きづらい私のエモーションを揺さぶる(エモい)曲をまとめておきたいと思う。 Rei「ERROR 404」 ボクたちの心臓は 刻んている 不揃いなbeatを I'm an ERROR ERROR ERROR 刻々と時間 すぎさっていく 無力なボクのtempo I'm an ERROR ERROR ERROR 素晴らしい。私と同世代でこんなにクラシカルでニューエイジで最高にクールな曲を作る天才の一人。歌詞に込められる、「自分らしくあってやる」という彼女の魂に、いつも勇気をもらう。 長澤知之「はぐれ雲けもの道ひとり旅」 少しその街を離れて ケータイの電源を切って しばらく友達も忘れて 鈍行に揺られるだけでいい 君にとってその生活が時折負担になったなら 恋しくなるまで旅をして 恋しくなったら戻ればいい この人は、以前の記事にも書いたが、はじめはオフィスオーガスタの福耳の一員として、そのギタースタイルと独特の声質が気になって、その後ALのメンバーとして認識して、最近漸くソロを聴くようになったのだけど、センシティブで傷つきやすい自分の弱いところを、格好つけず素直に歌い上げてくれる等身大の歌詞が魅力。これまた大好き。  ズーカラデル「イエス」 有り余る情熱が 君を追い詰めるだろう 阿呆みたいな顔して流れてく 人混みを追いかける 見そうで見えない答えが どうにもならん苛立ちが 小さくても消えない魔法が 未だに足を突き動かす まだ何も判らないけど 行かなきゃ ほらイエス言え この人達もよい。等身大。かっこいいんだけど、かっこつけていない。ある意味ではダサさすら感じる。こういう人たちがちゃんと売れてほしいなあ。 Mr.Big「Goin' Where the Wind Blows」 Am I strong enough to walk on water Smart enough to come in out of the rain? Or am I a fool goin' where

曲作りと録音

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曲を書いたり、既に書いていた曲を録ったので、ご紹介。 これまでに書いた曲はこちらのページにまとめているのでお時間あれば是非。 https://satsumage81.blogspot.com/p/blog-page.html 手を振り足を鳴らし 今年(2020年)の1月頃に書いた曲。生きるって、なんだか踊っているみたいだなあ。って思って書いた曲。 小春 小春って、旧暦での月の名前だったんですね。というのを最近読書していて知って。それで、たまたま全く関係ない曲のコードをつけようとしていたときにギターを触っていてできた曲。 単調すぎるだろうか。。。もう少し作り込むか迷うところ。 正直、3分くらいの曲の大半が、最後の「長い冬を待つ 小春」に向けての助走というか、ふりみたいになっている気もする。 秋風 このブログでも紹介済みの曲。2013年頃に秋空を見ながら書いた曲。 よろしければご一聴ください。

大人になることを考える;村上春樹「海辺のカフカ」の再読

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村上春樹「海辺のカフカ」再読。 読み終えて一日考えたことのメモ(FBに書いたこと)。読み終えてすぐの感想はその下に長々と。 昨日、村上春樹「海辺のカフカ」を読了し、色々なことを考えた。ここのところ、自分のこととして考えていたこととクロスし、中々身のある思索になっている気がする。 「海辺のカフカ」の主題は、とにかく「大人になること」である。 大人になること、子供ではなくなることとは何か。 この小説で描かれるそれは、両親や育った環境に対する受動的な態度を、それら全てを含めて自分自身であると受け入れる(=主体的な態度)ことなのではないかと思った。両親や育ち、というのは子供が選べないものである。しかし、それがどんなものであれ、人間は大人になっていく。そのときに、自分が受け取ってきたもの(善きものにせよ悪しきものにせよ)を、自分で選び、認め、許し、受け入れることが必要になるのではないかと考えた。 また同時に、大人になることとは、河の向こう岸に見える「理想の自分」を追い求める姿勢から、こちら岸の自分と向き合う姿勢に変わることではないかと思う。どこかにあるかもしれない理想の自分を手探りで探す年齢ではもうないのだろう。こちら側の、この世界に立つこの自分という存在を、選び、認め、許し、受け入れる儀式もまた大人になるということなのではないかと思う。 こう考えると、20歳を迎えて既に9年半近くが経つ私も、ずっと子供のままだったのだと思う。長らく小学生の頃からの延長線にいた気がする。 自然発生的に生じた自分という存在を、自分の意志で受容する。自分が認めた存在として再定義する。それが大人になる、ということなのかもしれないと考えていた。 そんな日曜日。 以下、読み終えた昨日勢いで書いた長い感想。 気になるところに付箋を貼ってみたら、高校時代の英単語集みたいになってしまった。 おそらく、20歳ごろ、人生で初めて読んだ村上春樹の小説だったのではないかと思う。当時は、この小説の意味がよくわからなかった。格別、表現が難しいわけではない。起きていることはなんとなくわかる。何かのメタファーとなっていることはわかる。何かを伝えようとしているのはわかる。だけど、それが何かわからなかった。 今回は、意を決しての再読。丁寧に読むことにした。また、あれからほぼ10年が経つ、というのもある。何となくこの小説の伝え