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たりないふたりとたりないふたりとたりない私とたりないひとたち

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2021/5/31 配信ライブ「明日のたりないふたり」 南キャン・山里とオードリー・若林による漫才ユニット「たりないふたり」の解散ライブを仕事を早めに上がって視聴。 ただのお笑いじゃない。 たりないことを受け入れて笑ってやっていいって、教えてくれた。たりてないのが私だけじゃないと教えてくれた。人生をもがいていくのがどういうことなのか教えてくれた。 私と一緒にたりないふたりに共感していた、別のたりないふたりが武道館でライブやって、Mステに出て、それでもまだたりない曲を書きながら、バカスカと実力を見せつけている。 ほんと、たりないふたりは、素晴らしいコンテンツだ。 奇跡的なつながり。だけど、たぶんこれは革命でもなんでもない。どこに飛び立つヘリコプターもない。たりないひとたちは引き続きたりないままやってくんだろうな。 でも、ほんと感動したんだけど、欠落って、不足って、共有できるんですね。 私のしんどかった時期に、一人じゃなくてよかったと思う。上に革命じゃないと書いた。たぶん彼らの「たりないふたり」だけでは、まだ何も変わっちゃいないと思う。 だけど、彼らは「たりない」ことが共有されるコンテンツたりうることを示した。たりてないことがどれだけ満ち溢れてるかを見せつけた。 彼らが生の不満をぶつけてそれでも一緒にいられたことは、それはたりないふたりだったからなんだろうな。 ああ、たりない私は、たりないふたりとたりないふたりにどれだけ救われてきたか。素晴らしい芸能だった。たりないふたり。 今日、時間を共有した私たちは皆、明日からもまたたりないままなんだろう。 ありがとう。山里さん、若林さん。たりないふたり、めちゃくちゃ楽しかったよ。めちゃくちゃ共感したよ。めちゃくちゃ安心したよ。めちゃくちゃ助けられたよ。あなたたちがCreepy Nutsを引っ張り上げてくれたおかげで、HIP HOPのかっこよさを知ることができたよ。あなたたちたりてないひとたちが表現をしてくれているおかげで、私も一人じゃないんだってずっと思うことができたよ。 きっとたりてる私だったら、このたりてないひとたちには会えなかったんだろう。 ああ、たりてなくて良かったなあ。

たりないひとたち

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  こんにちは、RTです。 ここのところはあんまり調子はよくないのだが、そういう話をどこまでこのブログでするかなあと逡巡している。まあ、つまるところ私は筋金入りのメンヘラ男なわけだが、それはさておき、今日は好きなお笑いの話をば。 5/28深夜に「たりないふたり」という番組が公開された。 これは、南海キャンディーズ山里亮太さんとオードリー若林正恭さんによる同名ユニットによる番組で2人で色々なことについて会話をして、その内容に沿った漫才を披露する、という趣旨。もちろん2人のかけあいや漫才とか、そのなかでの2人の天才的なアドリブとか、本当にお笑いとして面白いし、この人たちの頭のなかはどうなっているのだろうといつも不思議に思う。 中でも、私がこのユニットのファンになったのは、この2人のトークの内容にあまりにも共感できたからだ。 タイトルにもあるとおり、この番組では2人が、自分たちの「たりない」部分を取り上げてトークを繰り広げる。社交性とか恋愛とかテレビが苦手とかそんなもろもろ。 で、私がはじめてこの番組を観たのは大学生のときで、この番組を観てすごく安心したのを覚えている。シーズン1の放送時期を調べたら2014年、つまり私が大学4年の年であった。 私は大学院まで進んだので大学4年といえどすぐに社会人になるわけではなかったが、研究室配属の後、少しずつ自分の小さな世界より外の人たちとの交流が始まり、自分の社会人としての能力の低さや、社会人的な振る舞いをすることがどれだけ苦手であるかを痛感していた。要は、飲みニケーション的なあれだ。 みんなが当たり前にやってることが全然うまくできない。 私は、とかく飲み会が苦手だ。こう話し始めると色々言ってしまいたいところだが、それはこのブログの趣旨に反するのであまり言わないようにする。だが、飲み会が連想される発言とか空気感とか諸々を見ると、気持ちが落ち着かなくなる。そういうようなところだ。 そんなこともあって、この、たりないふたり、という番組を初めて観た時、最初に抱いた感覚は「安心」だった。 自分より一回りほど上の、しかも、自分よりもっとコミュニケーション能力が高そうな業界にいる芸人さんが、自分と同じようなことを同じような熱量で考えていて、すごくほっとした。 自分にとって、長い間、飲み会を楽しめないとか、そういう社会に溶け込めないという事...