人生の小説

 自分にとって、「人生の小説」と呼ぶにふさわしい小説がある。それは、どこかしら自分の人生のことを書いているように感じるところもあり、また、20代という非常に不安定な時期に、自分の生き方に影響を与えたようにも思える小説である。それに、自分の人生のなかでこんなに大切に読み直し続けている小説はほかにはないとも思える。

久々に、またその小説を読み直したので、そのことについて簡単に書いておきたい。

以前にも「1Q84」を取り上げているから、予想できることかもしれないけれど、それは村上春樹の小説でタイトルは「ダンス・ダンス・ダンス」(1988年)。

「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の青春三部作(鼠三部作)を通じて、主人公は世間とは馴染めないながら自分なりの生き方を続け、その中で静かに色々なものを失っていった。30代も半ばに差し掛かる彼が、もう一度、自分の人生の中で失っていったものを取り戻していこうという物語。

実は、私が村上春樹小説で最初に購入したのはこれだったはずだ。ただ、読み始めて最初の段階であまりに設定が理解できなかったので、前作「羊をめぐる冒険」に一度戻ったと記憶している。

たしか、19歳か20歳になった年、大学の1年生か2年生の時だった。そのときからずっと自分にとって大事な小説になっている。かれこれ10年ほどは経つわけだが、それを今日読んでも、物語に心が強く揺さぶられ、涙しそうになった。

この小説について、私が魅力に感じるのは主に2つである。1つは、人生の示唆に富んだ名台詞や今でも印象に残っている表現の数々。もう1つは、魅力的な登場人物。これらはこのあとの村上春樹作品でも、もちろん当てはまるだろうけど、それにしてもいまだにこの小説ほど魅了されたものは他にないと思う。最初に出会い、そして今のところ自分の中で最高の作品になっている。

1つ目の表現について、いくつか引用してみたい。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽のなっている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになってないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(上)」(講談社文庫)

この言葉は、ずっとぼんやりとした生きづらさを抱えてきて、人生に何かの意味を見出そうとしていた自分にとってすごく意味のある言葉だった。だからそのあとも、今に至るまで、ずっと頭に残っている。足を停めてしまって、もう手遅れになるようなことがないように、身につけたステップを踏み続ける必要がある。

舞台の暗転みたいな一瞬の急激な眠りだった。眠りに落ちた瞬間のことを僕はちゃんと覚えている。巨大な灰色猿がハンマーを持ってどこからともなく部屋に入ってきて、僕の頭の後ろを思いきり叩いたのだ。そして僕は気絶するみたいに深い眠りに落ちた。

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(上)」(講談社文庫)

眠りに関する表現として、すごく好きで印象に残っている。特に私は眠るのが苦手で、しばしば眠りたいのに眠れなくて悶々とすることがあるのだが、その度にこの表現を思い出す。どこからか灰色猿が出てきて自分を深い眠りに叩き落してくれないかなあと期待してみる。

「待てばいいということだよ」と僕は説明した。「ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

この部分は今回読んで惹かれた。今の自分に大切かもしれない。

「もう十分だよ。ありがとう。愚痴ばかり聞かせて申し訳ないと思う。でも僕のまわりを取り囲んでいるものは、みんなみんなみんなひからびた下らん糞みたいなものなんだ。純粋に吐き気がする。純粋で絶望的な反吐が喉まででかかっている」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

後に述べる大好きなキャラクター・五反田君の台詞。純粋で絶望的な反吐、という表現が好き。徹底して正直にならないとこの表現は出てこないと思う。

「呪われたマセラティ」と僕は言った。

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

東京に出て、マセラティの車を見るたびに、私も心の中で思うようになった。所有者の方ごめんなさい。

「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

これもまた示唆に富んだ台詞だと思う。この10年で何度も、この台詞を思い出す場面があった気がする。

 後ろのセドリックがクラクションを三回鳴らした。信号が青に変わっていた。落ち着けよ、と僕は思った。急いだって、それほど立派な場所に行けるわけでもないだろう?僕はゆっくりと車を出した。

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

日常で、車道でクラクションを鳴らすのが聞こえると、こんなことを呟いてみたりもする。

「一回りして何処に帰ってきたの?」

「現実にだよ」と僕は言った。「ずいぶん時間がかかったけど、僕は現実に帰ってきた。いろんな奇妙なものの中を通り抜けてきた。いろんな人々が死んだ。いろんなものが失われた。とても混乱していたし、その混乱は解消したわけじゃない。たぶん混乱は混乱のままで存続し続けるんだろうと思うんだ。でも僕は感じるんだ。ぼくはこれで一回りしたんだって。そしてここは現実だ。僕は一回りするあいだくたくたに疲れていた。でも何とか踊り続けた。きちんとステップは踏み外さなかった。だからこそここに戻ってくることができたんだ」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

自分の人生でも、なんか当てはめることができるように思える。自分が正しいステップを踏み続けているのかは全く自信がない。だけど、少なくとも10代の頃に自分の人生について感じていた混乱は、今もまだ混乱のままだし、多分これからも混乱のままなんだろうなと、20代を10年近く生きてきてようやく理解できた気がしている。少しだけ。

表現については挙げつづけたらきりがない。とりあえずこのくらいにしておく。たぶんこれでも多いんだろうけど。

そして、もう一つ書かないといけないのは、登場人物について。

この作品は特に印象的なキャラクターが多い。ユキにしてもユミヨシさんにしても大切なキャラクターだし、個人的にもすごく好き。なのだけど、特にどうしてもフォーカスしたいキャラクターがいるので、この記事では彼だけに焦点をあてる。本当に、印象的なキャラクターが多いのでぜひ手に取ってほしいとは思う。

私が個人的に言及しておかないといけないと思うのは、五反田君というキャラクター。下らない映画で下らない役を与えられる俳優として活躍する彼は、自分の外面と内面に強烈なギャップをかかえている。条件反射的に求められた姿を演じてしまう人間性。彼の人生は、目に見える部分では「成功者」と評価されるところもあるが、実際にはどこにもいけないような状況に打ちひしがれている。

「たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス(下)」(講談社文庫)

この台詞が出てくる独白の場面は、何か私も共感できるところが強かった。彼ほどうまく演じてはこれなかったけど、私も何か自分の外側の目を常に意識して、自分がどうありたいというのよりも、その外側の目が自分をどう評しているかばかりを気にして生きてきた。最近、この生き方がもたなくなってしまって、いろいろなものを見直すことになってきている。その意味で、五反田君の苦悩は、かなりよく理解できる類のものだ。それ故に、彼が破滅に向かっていく姿はあまりに痛々しく、何回読んでも心を強く揺さぶられる。


それにしても、久しぶりに青春三部作から読み返した。

一気に読んだので、自分自身、主人公と投影する部分が非常に強かった。その意味で、前3作の中でゆっくりと静かに、色々なものを失い続けた主人公が、もう一度自分にとって大切なものを取り戻そうと戦うさまが、自分にとってとても意味のあるもののように映った。すごく勇気をもらえたように思う。

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