『1984年』の再読・感想

ジョージ・オーウェルの「1984年」を再読した。

『一九八四年〔新訳版〕』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター (bookmeter.com)

初めて読んだのは、20歳を過ぎた頃、7・8年前だったと思う。おそらくよくあるパターンだと思うのだが、村上春樹「1Q84」を初めて読んだ時にそこで登場した書籍をひたすら読み漁っている時期があって(この時期に現在、日本人作家として2番目に好きとなった内田百閒とも出会う)、勿論「1Q84」のモチーフとなった本作も手に取った。

そして、読み終えることとなったのだが、初読時の読後インパクトとしてはおそらく現在でも未だに最も強烈だと思う。分かりやすく言って、「喰らってしまった」。こめかみ辺りにがつんと一発。脳が揺れてくらくらする感覚。正直言えばポジティブなインパクトではない。物語はよく構成されていて、手に取った単行本(新訳版)は言葉遣いも非常に読みやすい。インパクトとなったのは、その物語が導き出す絶望性にあった。

こればっかりは絶対にネタバレできない。私は、できるだけ多くの人にこの本を手に取ってもらいたい。この小説が発表されたのは1949年、ジョージ・オーウェルが亡くなったのは1950年だが、今の時代においても、あるいは今の時代だからこそ、自分が自分として生きることを考えさせる小説だと思う。もしくは、「個として生きること」あるいは「個として殺されること」を強く考えさせられる物語だとも思った。

本書はカテゴライズすればディストピアものとなるが、私にはこの小説が完全なフィクションだと断言できない。この小説を覆う絶望の根となっているものは、現代の社会にも地続きのところにあると、そんな気がするのだ。よく思うのだが、現実を構成するある種の要素は、ノンフィクションでは描くことができないのではないか。一度抽象化し、フィクションとして再構成することによりはじめて、現実に潜むある種の要素が際立って表現されるのではないかと思う。

はっきり言って「喰らいます」。ハイカロリーです。それでも、それでもなお、できるだけ多くの人にこの絶望を実際に喰らってほしい。1984年という小説の舞台設定やおおよその展開はWikipediaでも学べると思う。だけど、この絶望を実際に喰らったか喰らってないかは、人生経験として大きく違ったものとなると思う。

ぜひ読んでほしい。

本記事では、自己のための備忘録として、小説中に出てきた印象的な文章を記録しておこうと思う。ここに書くことを読むだけでも「喰らった」感覚のネタバレにはならないと思う。本当にぜひ一度手にとって主人公ウィンストンに没入して「喰らって」ほしい。もしかしたらその晩は飯も喉を通らないかもしれない。それでも、あなたの生きる視点にこれほどがつんと影響を与えることは、どんなハウツー本にも、ほとんどの哲学書にもできないはずだ。

もう一度言う、本当に、「実際に」読んでほしい。

ともかく、以下本文からの抜き出しとなる。ネタバレは可能な限り避けるが、気になる方はここまでにしていただければ。あと、何度でも言うが、この抜き書きは自分のための備忘録であり、壮大な世界を描いた大作の小さな小さな欠片にすぎない。以降の文を読んで、本書を読んだ気にはならないでほしい。



以下の抜き書きはハヤカワepi文庫「1984年[新訳版]」(初版・10刷)に拠る。

 

 ビッグ・ブラザーがあなたを見ている

 

 未来へ、或いは過去へ、思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へ――真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。 
 画一の時代から、孤独の時代から、〈ビッグ・ブラザー〉の時代から、〈二重思考〉の時代から――ごきげんよう!

 

 分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の 範囲を狭めることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現する言葉がなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙げ句、忘れられることになるだろう。


 純潔なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐っててほしいんだ


『肉体上はね。六ヶ月、一年――五年だっていやこの先、五年だって死なないかもしれない。死ぬのは怖い。君は若いから、ぼく以上に怖いだろう。できるだけそれを先延ばしする自分がいるのは目に見えている。でもたいして違いはないんだ。 人間が人間である限り、死ぬも生きるも同じことさ』
 『何て馬鹿なの!わたしと死体と、どっちと寝たいの?生きているのが楽しくないの?感じることが好きじゃないの?――これが自分だ、これが自分の手だ、これが自分の足だ、自分は実在する、自分は抜け殻ではない、自分は生きているって。』


党が権力を求めるのはひたすら権力のために他ならない。他人など、知ったことではない。われわれはただ権力にのみ関心がある。富や贅沢や長寿などは歯牙にもかけない。ただ権力、純粋な権力が関心の焦点なのだ。純粋な権力が何を意味するのかはすぐに分かるだろう。われわれが過去のすべての寡頭政体と異なるのは、自分たちの行っていることに自覚的だという点だ。われわれ以外の寡頭制は、たとえわれわれと似ていたものであっても、すべてが臆病ものと偽善者の集まりだった。〈中略〉われわれはそんな真似はしない。権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている。権力は手段ではない、目的なのだ。誰も革命を保障するために独裁制を敷いたりはしない。独裁性を打ち立てるためにこそ、革命を起こすのだ。迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。


『われわれは権力の司祭だ』彼は言った。『神が権力なのだが、まだ今のところ、君にとって権力は一つのことばに過ぎない。権力が何を意味するか、そろそろ君なりに考えをまとめてもいい頃だろう。最初に認識すべきは、権力が集団を前提とするということだ。個人が個人であることを止めたとき、はじめて権力を持つ。〈自由は隷従なり〉という党のスローガンを知っているだろう。この逆も言えると考えたことはないかね。つまり、隷従は自由なり、ということだ。一人でいる――自由でいる、このとき人は必ず打ち負かされる。それも必然というべきだろう、人は死ぬ運命にあり、死はあらゆる敗北のなかで最高の敗北だからね。しかし、もし完全な無条件服従が出来れば、自分のアイデンティティを脱却することが出来れば、自分が即ち党になるまで党に没入できれば、その人物は全能で不滅の存在となる。二番目に認識すべきは、権力が人間を支配する力だということだ。肉体を支配する力もそうだが、何よりも、精神を支配する力だ。物質――君の言う外部の現実だな――を支配する力は重要ではない。すでに物質に対するわれわれの支配は絶対のものになっているからね』 

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