なぜ天才でもないのに曲を作るか;新しい曲のご紹介(歌詞込み)

新しい曲を書いた。

「幸せになれますように」

うまく説明するのが難しいのだけど、これまで書いた曲の中で一番手応えのある曲だったりする。

曲としては大したことないと思う。そんな複雑な構造も美しいメロディもなく、言いようによっては凡庸だとも思う。

だけど、この曲を録音したときに、「ああ、俺が曲作りで書きたかったのはこういう曲だった」と、そんな気持ちになった。

歌詞としては、都内を歩いていてふと目についた景色と自分の人生を重ねたもの。秋葉原の駅近くで、寒い中、笑顔を振りまきながら客寄せに立つ女性。

程度の差こそあれ、自分の体を、女性であることを、自分の本音を隠して売っている人たち。きっとその人達にもそれぞれの考えや思いがあって、それを勝手に遠巻きに悲観的に見るのもどうかとは思うのだけど、作りきった自分を売って報酬を得るというその生き方が、なんだか自分の生き方と重なってしまって。

私も、ずっと娼婦的な生き方をしてきたと思う。作り笑顔と相手の求めることに応じて、自分を殺して。それで、コミュニティの中での安定した立ち位置とか、批判されない安全性とか、そういう報酬を得てきた。

そこには報酬がある。だけど、一方で私達はその報酬を身を切らずには得られない。隠した本音は、たぶん私達が一番大事にしないといけないもので、それを差し置いて売り続けた身体は、目に見えないところで、相当に傷つくのだと思う。

私は、どうしたらそんな娼婦的生き方を変えられるのかわからない。どうしたら、彼女たちが幸せになれるのかわからない。だけど、この世界のほの暗いところで、静かに傷ついていく人たちが少しずつでも幸せになれたらいいなと、そんな願いを込めた曲。私はキリストでもブッダでもない。自分のことすら救えない。祈ることしか出来ないんです。

そんな歌。初めての試みだけど、歌詞を掲載してみる。

誰かを、自分を祈ることができる歌を書けたのが少しうれしい。


あと、この曲も書けて嬉しかった曲(先日紹介済み)。


こちらもせっかくだから歌詞カードを作ってみた。

私は音楽が好きだ。それなりに色々な音楽を聴いて感動してきた。ある種の音楽をあほらしいとバカにして、ある種の音楽を崇めるように聴く。だから、自分で曲を作ったものを聴いても、凡庸だなと思うことは多々ある。

また、私は小説が好きだ。それなりに読んできた。たまに書きたいとすら思う。だけど、小説については書こうとしてもうまく書けない。

なぜだろう。

村上春樹は「ティファニーで朝食を」(トルーマン・カポーティ)の新訳を行った際、そのあとがきに以下のようなことを書いている。

個人的な話になるが、僕は高校時代にこの人の文書を初めて英語で読んで(『無頭の鷹』という短編小説だったが)、「こんな上手な文章はどう転んでも書けないよ」と深いため息をついたことを記憶している。僕が二九歳になるまで小説を書こうとしなかったのは、そういう強烈な体験をしてきたからである。そのおかげで、自分には文章を書く才能なんてないのだと思いこんでいた。

村上春樹のような才能のある人に自分みたいな素人曲作りを重ねるのも非常におこがましいのだけど、これはでも大きいと思う。私が曲を書けるのは、多分、触れてきた音楽の幅がまだ狭いときに曲を書き始めたからなんだと思う。

一度はじめてしまえば、それはある種の習慣になる。この年齢で小説のようなものを書こうとすると、自分の書こうとしている物語のチープさに吐き気がしてしまう。

創作を始めるなら、若いうちに、がいいのだろうと思う今日このごろ。


それはそうと、なぜ天才でもないのに曲を作るのか。である。それは、言葉にできないからである。もし私に、飲み会で酒のんで本音をぶちまける才覚があるなら、たぶん曲なんて作れない。私の頭の中には、たくさんの言葉がある(この際、価値のある言葉か否かは気にしないで頂きたい)。本当はそれを誰かに話してみたいと思っている。だけど、私はそういう才覚がまったくないから。どんなに拙い曲作りでも、自分が一応手にすることができたこの表現で、自分のことを表したいと欲する。

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