投稿

2月, 2021の投稿を表示しています

音楽絡みの動画を4つ挙げました;引越し先で新しいスタジオへ行ってきた

イメージ
引越絡みでなかなかギターに触る時間もなかったところ、久々にスタジオへ。引越し先の街にスタジオはなかったので、柏のスタジオへ。 STUDIO NORTH HOLLYWOODさん (@STUDIO_NOHO) / Twitter 目標としていたのは、オリジナル1曲とカバー1曲の録音だったものの、行ってみたら今日は比較的スムーズに録音できたので、オリジナル2曲、カバー2曲を録音してきた。 まずはオリジナルからご紹介。 「オープン・マイ・アイズ」 昨年は、人との向き合い方を考え直す1年だった。そんなプロセスの中で書いた曲。曲を書いたのは9月頃のことだった模様。 「小春」 こちらは昨年11月に、小春という言葉が旧暦10月を表しすこともあることになんとなく強い印象を受けて書いた曲。 続いて、カバー曲。 「深夜高速」(フラワーカンパニーズ) 歌詞が大好きで、独りでカラオケに行くときにもだいたい歌う。カバーしてみて気がついたのだけど、コード進行が恐ろしくシンプルで、その分表現が難しいと思った。 「幸福論」(椎名林檎) 高校時代に組んでいたバンドで「幸福論(悦楽編)」をカバーして以来、なんとなく口ずさむことの多い曲。当時はベースだったから、ギターも歌もやってはいなかったのだけど。そして、個人的には、悦楽編よりオリジナルが好きだったりする。 椎名林檎の「オーラ」って、かなり危ない諸刃の剣で、下手に手を出すとかなり痛々しくなるかなと思い、曲中から彼女独特の雰囲気を出しているコードを外してしまった(練習不足という面も多分にある)。 練習不足というか引越しやら何やらでギター触ってなかったのを痛感したスタジオ入りだったけど、割と好きな曲を好きにやったのはよかった。

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』の案内(2021年2月時点)

イメージ
私は村上春樹がとても好きなので彼の本を色々と買い込んでいるのだが、本棚を見て「そういやちゃんと読んでなかったな」と思った本があった。 それが、「若い読者のための短編小説案内」(文春文庫, 2004年(単行本1997年))だった。手に取った当時この本を読めなかったのには明確な理由があった。この本では、「第3の新人」という日本の文学史のなかの一群の作家の短編を扱っているのだが、私は当時日本文学に興味を持っていなかった。それが理由である。 ところが、ここのところ急激に日本文学に興味をもつようになった。 これについては前記事で:「 好きな日本人作家の話 」 という流れがあり、今回本書を読むことにした。 この本の中では6人の、第3の新人に類される作家が扱われる。 以下に扱われている作家の情報をまとめる(入手困難か否かについては、書店で発注して入荷してもらえるか確認した結果。Amazon等で探せば中古なら下記の全集以外の収録書籍を入手可能。全集で読むなら図書館で探せば恐らく見つかるはず)。 小説家名 作品名 今回確認した収録書籍 入手困難? 吉行淳之介 水の畔り 吉行淳之介全集1(講談社) 困難 小島信夫 馬 アメリカン・スクール (新潮文庫) 購入可能 安岡章太郎 ガラスの靴 質屋の女房 (新潮文庫) 購入可能 庄野潤三 静物 プールサイド小景・静物 (新潮文庫) 購入可能 丸谷才一 樹影譚 樹影譚 (文春文庫) 購入可能 長谷川四郎 阿久正の話 現代の文学22 長谷川四郎 開高健 (講談社) 困難 吉行淳之介「水の畔り」については、この作品は探しづらいが、芥川賞受賞作品でもある「驟雨」を収録する「原色の街・驟雨」等は購入可能(「水の畔り」はマイナーな作品のようですね)。この本に収録されている「漂う部屋」は「水の畔り」と同じ病室を扱った短編。 長谷川四郎「阿久正の話」については、この作品だけでなくこの作家の単行本そ

好きな日本人作家の話

イメージ
個人的な話になるが、昨年夏頃から読書習慣が7年ぶりくらいに復活した私は、ようやく日本の文学作品を多少なりとも広く読むようになった。 私は音楽でも読書でも基本的には、誰か1人(もしくは1グループ)に猛烈にはまり、その人(グループ)に影響を与えたものに派生していく形で趣味の幅を広げる。だから、ジャンルだったり年代だったり、客観的な分類で話を始めるとうまく入っていけないことが多い。 読書については、特に村上春樹作品によく登場するフィッツジェラルドのようなアメリカの作家の方面で広げてきたように思う。 それが、最近改めて村上作品だったり関連作品だったりを読み直していた中で、ようやく夏目漱石に辿り着き、日本文学を色々と楽しみたいと考えている状況が現在である。 まずは夏目漱石の話をする前に、 内田百閒 について。 村上春樹「1Q84」の中で天吾が病室で眠り続ける(そして不和でもある)父に向けて淡々と読み聞かせをする場面の中で登場する「 東京日記 」という小品集からの一節が何となく強烈な印象を与えてきた。最初はその文の出典がわからなかったところから頑張ってこの作品を探し出してきて、読んでみて大好きになった。個人的には、「 百鬼園随筆 」、「 御馳走帖 」で見せるへそ曲がりの頑固な厄介者な姿や「 ノラや 」で見せる可愛らしさなどもまた、随筆を通じて見ることができた百閒先生の姿であり、この作家に強い親しみを覚えることとなった。 明治の終わりに岡山県に生まれ、昭和の終わりまで生きた作家。夏目漱石の大ファンとして帝大入学と共に上京し、芥川龍之介に背中を押されてプロの小説家になったらしい。 本当にその素直な日本語の使い方が印象的で、とても好感の持てる作家だと思う。 さて、話を夏目漱石に戻す。夏目漱石を手に取ったのは複数の要因からだった。 一つは、 内田百閒 。上述のとおりであるが、彼は夏目漱石の大ファンであり弟子でもある。 もう一つは、「 海辺のカフカ 」。主人公の少年が高松の図書館で夏目漱石の「 坑夫 」を読む場面がある。 さらにもう一つが、 芥川龍之介 。新潮社が「 芥川龍之介短篇集 」(ジェイ・ルーピン編)という、英語話者向けに海外で発売されたものを「逆輸入」したものがあるのだけど、その序文を村上春樹が書いているということで手に取っていた。そして、芥川龍之介は内田百閒の親友であり、夏目

『1984年』の再読・感想

イメージ
ジョージ・オーウェルの「1984年」を再読した。 『一九八四年〔新訳版〕』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター (bookmeter.com) 初めて読んだのは、20歳を過ぎた頃、7・8年前だったと思う。おそらくよくあるパターンだと思うのだが、村上春樹「1Q84」を初めて読んだ時にそこで登場した書籍をひたすら読み漁っている時期があって(この時期に現在、日本人作家として2番目に好きとなった内田百閒とも出会う)、勿論「1Q84」のモチーフとなった本作も手に取った。 そして、読み終えることとなったのだが、初読時の読後インパクトとしてはおそらく現在でも未だに最も強烈だと思う。分かりやすく言って、「喰らってしまった」。こめかみ辺りにがつんと一発。脳が揺れてくらくらする感覚。正直言えばポジティブなインパクトではない。物語はよく構成されていて、手に取った単行本(新訳版)は言葉遣いも非常に読みやすい。インパクトとなったのは、その物語が導き出す絶望性にあった。 こればっかりは絶対にネタバレできない。私は、できるだけ多くの人にこの本を手に取ってもらいたい。この小説が発表されたのは1949年、ジョージ・オーウェルが亡くなったのは1950年だが、今の時代においても、あるいは今の時代だからこそ、自分が自分として生きることを考えさせる小説だと思う。もしくは、「個として生きること」あるいは「個として殺されること」を強く考えさせられる物語だとも思った。 本書はカテゴライズすればディストピアものとなるが、私にはこの小説が完全なフィクションだと断言できない。この小説を覆う絶望の根となっているものは、現代の社会にも地続きのところにあると、そんな気がするのだ。よく思うのだが、現実を構成するある種の要素は、ノンフィクションでは描くことができないのではないか。一度抽象化し、フィクションとして再構成することによりはじめて、現実に潜むある種の要素が際立って表現されるのではないかと思う。 はっきり言って「喰らいます」。ハイカロリーです。それでも、それでもなお、できるだけ多くの人にこの絶望を実際に喰らってほしい。1984年という小説の舞台設定やおおよその展開はWikipediaでも学べると思う。だけど、この絶望を実際に喰らったか喰らってないかは、人生経験として大きく違ったものとなると思う。 ぜひ読んでほしい。

Rei、表現する人;『Rei Release Tour 2021 "SOUNDS of HONEY"』の感想

イメージ
ミュージシャンってすげえなって思った。 今日はミュージシャン・Reiのライブをオンラインで視聴。 楽しかった。すっごい楽しかった。Reiを知ったのは確か2019年の中頃のことで、それから色んな曲を聴いていたのだけどライブを観たのは今回が初。 Rei自身も、またバンドメンバーも、すごくかっこよかった。もうまずはとにかくそれだけ。自宅でイヤフォンして踊り狂っていた。めっちゃよかったよほんと。 とにかくかっこよかった。「女性シンガーソングライター」とか「女性ギタリスト」とか、あるいは「シンガーソングライター」とか「ギタリスト」とか、もはやそういうカテゴライジングは意味なくて、全てのジャンルから独立して、もしくは全てのジャンルとのクロスオーバーとして、「Reiという表現者」として成り立っているのがすごかった。 よくよく考えたらこれまで聴いてきた曲もそうだったと思うのだけど、ステージ上にギタリストはRei1人。ロックで、かつこれほどギターでの表現が豊かな楽曲だと、バッキングギターを入れそうな気もするのだけど、そこに行かないのも、これもまた彼女の表現の芯の強さなのではないかと思う。(彼女はそんなにエゴイスティックではないのだと思うのだけど)「私の他にギターは要らない」というその姿がまず表現者としてかっこいい。Miyaviとかともそういう意味ではスタイルが重なる。唯我独尊のギタースタイル。しびれるんだよなほんと。 いつものことなのだけど、私はライブに行くのにすごく腰が重いタイプだ。チケットを買って、東京に電車で出て、ライブを楽しんで、夜遅くに帰ってくるというのを考えると何となく億劫になってしまって、相当行きたいと思わないと(この「相当」というのはReunionとか、神と崇める志磨遼平とか、本当にそのレベル)、ちょっとやそっと好きなだけならなかなかライブに足を運ばないことを改めたいなと思った。健康に生きてライブに行く。これ大事だな。 ライブ中に彼女が(うろ覚えなのだけど)「かたまりとしての「みんな」じゃなくて一人一人の「あなた」に私の曲を届けたい」というようなことを言っていて、ちょっと泣きたくなった。そうなんだよ。塊じゃないんだよな。 明日から一週間が始まる。ちょっとどんよりだけど、どうにか乗り越えていこうと思う。 そういえば今朝はようやく新居にインターネットが入った。何だか、その

くだらんおっさんたちよ、とりあえずここらへん聞こうぜと言いながら只々最近私がエモいと思った曲というかもう只々好きな曲を羅列する記事

イメージ
私は「ある種の」おっさん的思想が苦手だ。 そこら辺に関連して縦書きブログを更新した。 共同体と個・溶液・一九八四年 - RT - g.o.a.t ちょっと内容がペシミスティックにすぎた気がするので、そんな頭の凝り固まったおっさんたちに聴いてほしい曲を羅列することで近年のポジティブな面を楽しもうと思う。世間から叩かれまくってるおっさん方もこの素晴らしい現代の自由な音楽を聞いたらいいんじゃないかしらと思うのです。 Rei「Lonely Dance Club」 ほんと素敵。まずかっこいい。そしてかわいい。肩肘張って現代に戦いを挑むよりも、まず自分らしくあろうとする彼女の音楽スタイルがすごく好きです。何よりクオリティも半端ないのだけど。 藤原さくら「ゆめのなか」 この曲、歌詞をじっくり聴くとすごく心に来る。ラブソングじゃないんだよね。いや、ある意味ではラブソングか。「好きとかきらいとかそういうんじゃないんだ。ただ、、、大切にしてあげたいな 笑ってたいな」 すごく好きな歌詞の曲。 ALI「LOST IN PARADISE」 最近好きなバンド。かっけえ。多国籍バンドなんですってね。そして、HIP-HOPとのコラボも多く、めっちゃクロスオーバーだなあと大好き。そして、この曲、呪術廻戦のアニメのテーマなのね。あれ、漫画で一時期ハマってました。ここのところ、漫画を読むのをやめてしまったので、追っかけてはないのだけど(決して漫画へのディスとか、「俺、漫画読まねえんだよな」という謎マウントではなく、純粋に自分の何となくの流れで今そうなっているという話です)。ここ近年の豊作だったジャンプ漫画でも、たまらなく好きな漫画だった。釘崎野薔薇最高。 フラワーカンパニーズ「深夜高速」(The First Take) いや、もうなんか最近聴いててやばい動画を挙げる流れになってきている。原曲の「生きててよかった」とはまた違う趣きの「生きててよかった」。フラカンはベスト聴いたくらいだけど、この曲はたまに全力でカラオケで歌ってます。しかし、このアレンジはやばい。 橋本愛「木綿のハンカチーフ」(The First Take) もうただのファーストテイク縛りではないか。いやでも、この人いいなあと思った。俳優さんなのね。だからこそのこの表現なのかな。この曲ならおっさんも楽しめるでしょ?しかし繊細な表現ができる人な

引っ越しの話;生き方と土地

イメージ
個人的な話で失礼仕る。 そもそもブログは個人的な話をする場ではあるのだが。 本日、2021年2月1日に、茨城県つくば市から千葉県我孫子市へ引っ越しをした。 特に仕事を変えるとか、誰と同居しはじめるとか、そういうことはない。家賃は今より幾千円か安くなり、居住スペースは7割程度になった。 今回の引っ越しに関して、兎にも角にもテーマは住む土地を変えることである。 「職住近接」という言葉がある。 私の仕事は、「研究・開発分野の団体職員」である。そしてつくばは、研究・開発の街である。「職住近接」という観点からいえば、何と理想的な環境かという話になる。 のだけど、実際に私の人生というものを考えたときに、これが全てなのだろうかという気持ちが強くあった。 研究者、というものを見ていると、一つのテーマに深く潜ることが得意な人が多い印象を持つ。この仕事についてもう5年が経つ訳だが、就職してから近年に至るまで私は、それが理想だと思って生きてきた。 ただ、この5年、というか大学院の修士から数えればこの7年、私は色々なものを擦り減らしてきた気がする。 昨年、このブログを立ち上げた。その中で、読書や音楽について語る、或いは些末ながらに文を書き、曲を作る行為を行っているうちに、こういったことが自分にとってどれほど大切かということを改めて思い知った。 私の人生は、仕事に規定されるものではない。 それがここのところ思うところである。私の人生には本来、仕事があり、読書があり、音楽があり、映画があり、旅があり、そしてなんだろう、他にもまだ私も気が付いていない何かがあるのではないか。 そう考えた時、つくばという街に住み、研究という仕事をすることを少し危ないことではないかと思った。 それで、ここ2年ほど引越し先を探していた中で決定したのが、今回引っ越してきた我孫子市という街だ。 最初にこの街を選んだ理由は極めて物質的な理由からだった。 通勤時間がそれほど長くならないこと。街としてうるさすぎず、静かすぎないこと。 最初はそれだけだった。 それが、何度かこの街に通っていてわかったのだが、この我孫子という街は古い別荘地であり、明治終期から大正にかけての文学での一大ムーブメントであった白樺派が一時期拠点としていた土地でもあるということがわかった。 決して家探しをしたときに、白樺派を読んでいたわけではなかったから、そ